曽我蕭白は、享保15年(1730)京都丹波屋の次男として生まれ、安永10年(1781)52歳で同じく京都で没しています。池大雅・丸山応挙・伊藤若冲らと同時代を生きた画家ですが、正統的な様式を廃し、強烈な個性をもって特異な世界を築き上げました。しかし、奇矯な行動の逸話や醜怪とも評された画風が敬遠されてか、最近までそれ程の注目は受けていませんでした。ところが、個性的で奔放なその画風に対し、海外からの評価が高まり、昭和40年代後半に至って日本でも研究が進み、江戸後期を代表する画家としての地位が確立されました。
彼は、京都を中心に活動したのですが、しばしば作画のための旅をしています。播州へは少なくとも2回は来遊したことが、加茂神社の「神馬図」絵馬(宝暦12年 1762)と曽根天満宮の「牽牛図」絵馬(明和4年 1767)によって確認されます。彼は伊保崎の素封家に依拠し、真浄寺をはじめ市内に多くの作品を残すと共に、蕭月・蕭亭といった弟子を育て、地域に少なからぬ影響を与えました。


展示の模様

     
記念講演会  10月20日
倉敷芸術科学大学教授 久村重圭先生